世界的アーティストのYOSHIKIさんを検索すると、「母親」というキーワードが上位表示されます。
気になったので調べてみると、YOSHIKIさんを幼い頃からXJAPANのデビュー後も精神的にも金銭的にも支援していたのは母親の千恵子さんであることがわかりました。
母親の職業を調べてみたところ呉服屋と投資家ということが判明!
金銭的支援ができたのも職業が判明して納得です。
さらに詳しく見ていくと、YOSHIKIさんを金銭的に支えていた母親との間には心温まるエピソードが沢山ありました。
そこで今回は、
- yoshiki母親の職業は呉服屋と投資家!
- yoshikiと母親の仲良し親子エピソード5選!
についてお送りします。
yoshiki母親の職業は呉服屋と投資家!
YOSHIKIさんの母親の千恵子さんの職業は呉服屋さんと投資家です。
yoshiki母親の職業は呉服屋
YOSHIKIさんの母親の千恵子さんは、もともとはYOSHIKIさんの父親の家業である呉服屋さんを営んでいました。
YOSHIKIさんの実家は千葉県の館山で、実家の呉服屋「林呉服店」は父方の祖父が創業した歴史ある有名な呉服屋さんでした。
YOSHIKIさんの母親の千恵子さんは父親とともに夫婦で呉服店を切り盛りしていて、仕事が忙しい父親母親の代わりにYOSHIKIさんは家政婦さんに面倒を見てもらっていたんだとか。
実家の職業が呉服店で家政婦さんがいるなんて、YOSHIKIさんはもともと生まれたときからお金持ちだったんですね!
YOSHIKIさんが10歳の時に父親が亡くなった後は、母親の千恵子さんが女手一つで切り盛りされていたそうです。
yoshiki母親の職業は投資家
YOSHIKIさんの母親の千恵子さんは父親が亡くなったのちは女手一つで呉服屋を切り盛りしていましたが、数年後には呉服屋を畳みます。
その後は株や不動産の投資家を職業として生計を立てるようになったそうです。
YOSHIKIさんの母親の千恵子さんは投資家としての大変才能があったようで、呉服屋を畳んだ後もYOSHIKIさんら2人の息子を経済的に困らせることはありませんでした。
また、YOSHIKIさんの音楽活動の経済的援助も惜しみなくしていたことも有名です。
高校卒業後にバンド活動を志して上京したYOSHIKIさんは、なんと毎月50万円もの大金を母親の千恵子さんから仕送りで貰っていたなんて仰天エピソードも!
YOSHIKIさんの母親は相当なやり手の投資家だったんでしょうね!
YOSHIKIさんが「ロックスター」を職業として選べた背景には、母親の千恵子さんの多大な援助があったおかげといえますね。
それでは次に、YOSHIKIさんと母親の生前の心温まる親子エピソードをみていきたいと思います。
yoshikiと母親の仲良し親子エピソード5選!
YOSHIKIさんと投資家を職業としてバリバリ稼いでいた母親の千恵子さん。
YOSHIKIさんは困ったことがあれば、まずは母親に相談するほどの超仲良しな親子関係だったとか。
そんなYOSHIKIさんと母親の心温まる親子エピソードを5つまとめてみました。
- 父親亡きあとも経済的に困ることなく息子を育てる
- 息子の好きにやりたいようにさせる
- レコード会社設立に援助
- 春の園遊会に母親と参加
- 「天皇陛下在位十周年をお祝いする国民祝典」の出演を後押し
①父親亡きあとも経済的に困ることなく息子を育てる
YOSHIKIさんは父親が元タップダンサーでジャズやピアノを嗜み、母親の千恵子さんは三味線を嗜む音楽好きな家庭環境で育ちます。
4歳の誕生日に父親からピアノを買ってもらったことをキッカケに、実家近くのピアノ教室でクラシックピアノを習い始めたことがYOSHIKIさんの音楽活動の原点でした。
10歳の誕生日プレゼントはトランペットだったとか!
毎年YOSHIKIさんの誕生日プレゼントには父親が楽器を買い与えることが恒例となっていましたが、父親亡きあとは母親がその習慣を引き継ぎます。
KISSを聴いてロックに目覚めたYOSHIKIさん。
「11歳の誕生日はドラムセットが欲しい」とお願いすると、母親は即決で購入。
14歳の誕生日には「より複雑な音が奏でることができるドラムセットが欲しい」と、新たにダブルベースのドラムセットを買ってもらいます。
楽器は値段がピンキリですが、それなりにいいものを選ぶと相当な値段になりますよね。
またYOSHIKIさんが子供の頃となると楽器は現在よりももっと高価なものだったに違いありません。
投資家を職業としてバリバリ稼いでいた母親だからこそできた、素敵な誕生日プレゼントといえます。
母親の職業が投資家だったおかげで「ロックミュージシャン・YOSHIKI」が誕生したといっても過言ではないでしょう。
②息子の好きにやりたいようにさせる
YOSHIKIさんの母親は投資家を職業としてバリバリ稼いでいたおかげか、とにかく息子の好きなようにさせるおおらかな子育てをされていたそうです。
興味本位でKISSのレコードを買ってもらったYOSHIKIさんは瞬く間にKISSの虜になり、「KISSのコンサートに行きたい」と母親にねだります。
すると、母親は10歳のYOSHIKIと5歳の弟を連れてKISSの武道館コンサートに連れていってくれました。
またYOSHIKIさんは中学生になると理不尽なことを押し付ける大人の存在に反抗するようになり、いわゆる「不良」の道を歩み始めます。
そんなYOSHIKIさんに対して母親は、
「シンナーやドラッグに手を染めない、窃盗や暴行はしない、受験勉強はする」
という条件を出すだけで、息子を無理やり更生させることはしなかったそうです。
YOSHIKIさんはこの約束はしっかり守ったそうで、学校の試験期間中は暴走族の集会にも英語の単語帳を持ちこんで勉強してたという珍エピソードも(笑)
不良少年をしつつも勉強をしっかり続けていたことで、YOSHIKIさんは館山市内でも有数の進学校である安房高校(あわこうこう)へと進学します。
③レコード会社設立に援助
YOSHIKIさんは高校卒業後に幼馴染のTOSHIさんと共に上京し、「X」のバンド活動に情熱を注ぎます。
次第にバンドメンバーが集まってきたのでインディーズでレコードリリースを考えるものの、レコード会社からオファーはありませんでした。
そこでYOSHIKIさんたちは、自分たちの手でレコードをリリースすることに決めます。
YOSHIKIさんは一からレコード制作について学んでいると、レコード制作費用や収益管理、そして税金の申告には会社組織が必要であるということに気づき、呉服屋や投資家という職業で独立していた母親に相談します。
YOSHIKIさんの母親は休眠状態だった実家の呉服会社の社名と業務内容の変更手続きを行い、母親の手伝いの元、1986年4月に「エクスタシーレコード」が設立されました。
「エクスタシーレコード」設立から2年後の1988年に、YOSHIKIさんたちはデビューアルバム『VANISHING VISION』をリリースしようと考えるものの、今度は資金が足りません。
引用:ピンタレスト掲載 XJAPAN『VANISHING VISION』
なんとYOSHIKIさんは母親に1000万円を借して欲しいとお願いをします。
この時は流石に母親も「そろそろバンドやめたら?」「そんなお金はない」とキツイ一言を投げかけるものの…
翌日にはYOSHIKIさんの銀行口座には1000万円振り込まれていたそうです。
その後X JAPANは1989年にメジャーデビューを果たして大人気ロックバンドに!
さらに「エクスタシーレコード」は、
- LADIES ROOM
- ZI:KILL
- LUNA SEA
- TOKYO YANKEES
- GLAY
らを輩出する、ビジュアル系バンドのメジャーへの登竜門として成長していきます。
YOSHIKIさんの母親の職業が投資家でなければ、もしかしたらYOSHIKIさんらがメジャーデビューするまでの金銭的援助をすることは叶わなかったかもしれません。
YOSHIKIさんの母親の職業が投資家でなければ、今日の日本のロックバンド界は大きく変わっていたかもしれませんね!
④「天皇陛下在位十周年をお祝いする国民祝典」の出演を後押し
YOSHIKIさんは1999年に「天皇陛下御即位10周年をお祝いする祝賀式典」の式典中に演奏される曲の作曲と演奏を依頼されます。
引用:宮内庁掲載 「天皇陛下御即位10周年をお祝いする祝賀式典」
しかし、この時YOSHIKIさんは
- 1997年の年末にX JAPANが解散
- 1998年5月にはX JAPANのギタリストのHIDEが急逝
と、「自分はもう表舞台には立たない方がいいのでは」と苦悩していた中に舞い込んできたオファーでした。
迷ったYOSHIKIさんは母親の千恵子さんに相談したところ、
「素晴らしいご依頼をいただいたは光栄なことだから、やってみたらどう?」
と背中を押してくれ、さらには、
「天皇陛下に失礼があってはならないから」
と、この時のためだけに母親の千恵子さんはYOSHIKIさんのピアノを新調しました。
YOSHIKIさんが使うレベルのピアノということは、おそらく数百万円はするピアノだったと推測できます。
そんな高級品をポンと用意できる母親の千恵子さんはやっぱり凄すぎますね。
母親の後押しを受けてYOSHIKIさんはオファーを受諾。
そしてYOSHIKIさんは約20分の奉祝曲「Anniversary」を完成させ、祝典では約8分間オーケストラに合わせ、素晴らしいピアノの演奏を披露しました。
後にYOSHIKIさんは、
「あの瞬間がなかったら、僕は今こうやって活動できてるのかなあ、ぐらいに思います。あの時のことは本当に、第2の人生をいただいた気がしました」
と語っています。
現在のYOSHIKIさんが今もなおアーティストとして活躍しているのは、オファーをした平成の天皇陛下と後押ししてくれた母親の千恵子さんの存在のお陰であるといえますね。
YOSHIKIさんは精神的にも金銭的にも、投資家を職業にしてバリバリ稼いでいた母親の千恵子さんに支えられていたことがよくわかります。
⑤春の園遊会に母親と参加
YOSHIKIさんと母親の千恵子さんは2000年に開催された皇室主催の「春の園遊会」に親子で参加されています。
Just saw this on TV.
Yes, I went to 園遊会 with my mother in the year 2000 !
以前、#園遊会 にお母さんと参加させていただきました。https://t.co/0DdtI90sKp pic.twitter.com/9pPmYujeI3— Yoshiki (@YoshikiOfficial) November 9, 2018
かつては呉服屋を職業とされていたので、お着物がとってもよくお似合いの方ですね。
原則として園遊会の同伴者は配偶者というのが決まり。
母親と親子で出席していたYOSHIKIさんは大変異例なことだと、当時かなり話題になりました。
実はこの時、母親の千恵子さんも文部省からの推薦で招待されて園遊会に参加されていたそうで、親子で招待されることも大変珍しいことだと話題になりました。
呉服屋を職業とされていた頃のご縁や、もしかしたら「天皇陛下御即位50周年をお祝いする祝賀式典」でYOSHIKIさんを支援されていた功績をたたえての招待だったのかもしれませんね。
いずれにしても、母親の千恵子さんとYOSHIKIさんが仲睦まじく園遊会に参加されている姿はとっても素敵ですよね。
まとめ
今回は「yoshiki母親の職業は呉服屋と投資家!仲睦まじい親子エピソード5選も!」と題してお送りしました。
YOSHIKIさんの母親は千恵子さんという方で、職業は呉服屋と投資家をされていました。
YOSHIKIさんは母親の生前には困ったことがあれば金銭的にも精神的にも支えてもらっていて、深く信頼しあった親子関係であったことがわかります。
YOSHIKIさんの母親が投資家という職業でバリバリ稼いでいる方でなければ、もしかしたら今日の日本のロックバンド界は大きく違っていたかもしれません。
YOSHIKIさんにとって大きな存在であった母親の千恵子さんは2022年5月に亡くなり、先日のツイッター投稿でも悲しみを引きずっている様子でした。
今は母親との思い出に心を寄せ、また元気に復活して大活躍するYOSHIKIさんを待ちたいですね!