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三河中入をわかりやすくいうと?中入り戦法が得意な武将や成功例は?

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大河ドラマ「どうする家康」で遂に放送された歴史的大合戦の『小牧・長久手の戦い』。

この戦の際に用いられた「三河中入(みかわなかいり)」という戦法がネット上で話題になっていますが、わかりやすく説明するとどんな戦法なのでしょうか?

なんでも、三河中入りに代表する「中入り戦法」とはかなり無茶な戦いの方法だそうで、有能な武将でないとまず成功することができなかったんだとか。

そんな凄すぎる中入り戦法を得意とした武将がいるのならぜひ知りたいですよね!

また三河中入りは結果的に大失敗に終わっているのですが、過去の戦で成功した事例があれば気になります!

 

そこで今回は、

  • 三河中入をわかりやすくいうと何?
  • 三河中入のような中入り戦法が得意な武将は誰?
  • 中入り戦法成功例は?

 

についてお送りします。

 

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三河中入をわかりやすくいうと?

三河中入をわかりやすく説明すると、このような感じとなります。

 

◆「中入り」とは膠着状態の戦いで、密かに敵の背後に回って後方から奇襲攻撃をかけること
◆「三河中入」は羽柴秀次が徳川家康陣営に仕掛けた奇襲攻撃
◆徳川家康陣営は「三河中入」情報を即座にキャッチし、即座に先遣隊(水野忠重・榊原康政ら)を編成して小幡城へ派兵
◆先遣隊の行軍後、徳川家康も本隊を編成して小幡城へ向かう
◆「三河中入」軍先頭の池田恒興は岩崎城で丹羽氏重と戦い勝利
◆池田恒興が岩崎上で戦っている時にメイン部隊の羽柴秀次軍は白山林(小幡城の近く)に休息していた
◆そこを徳川家康の先遣隊が後方と側面から奇襲攻撃をかける(白山林の戦い)
◆羽柴軍勢は壊滅し、後の「長久手の戦い」へと繋がっていく
◆長久手の戦いでは徳川家康軍が大勝利
◆約8カ月にわたって続いた「小牧・長久手の戦い」の後、結果的に豊臣秀吉が天下を統一
◆しかし、この戦いで功績をおさめた徳川家康は実力を全国の大名に認識させ、豊臣政権下においても強い影響力を持つことに

 

 

引用:プレジデントオンライン掲載 三河中入を提案した池田恒興

 

中入りというのは、ざっくり言うと、
合戦で敵と味方がそれぞれ陣を張っていわゆる「睨みあい」みたいになっているときに、
ひそかに敵の背後に進軍して敵の後方を攻めてしまうという作戦です。

小牧長久手の戦いの場合には、
秀次は小牧あたりに陣取っている家康軍にバレないように、横をすり抜けて家康軍の背後の「本拠地の三河」を奇襲攻撃しようとしたそうなんです。
ただでさえ家康軍は秀吉軍に比べて兵力が圧倒的に少なくて不利なのに、突然背後の本拠地で秀次軍が暴れだして、放火はするわ留守家族たちを襲いまくるわとなったら、本拠地を助けに行くための兵力なんか割けないし、かといってこのまま秀吉と対峙を続けていたら本拠地がボロボロになって戦なんか続けられなくなるしで、もう壊滅するしかなくなっちゃうわけです。

引用:ヤフー知恵袋より 三河中入や中入りをわかりやすく

 

中入りとは、敵の最前線を避け、迂回して後方の手薄な部分を奇襲して破り、敵の全軍を壊滅に導く戦法のことです。

引用:プレジデントオンライン掲載 三河中入をわかりやすく

 

 

もん
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三河中入りの情報を徳川家康軍がキャッチすることができたのは、羽柴秀次軍が宿泊していた場所の近隣農民や忍者・伊賀衆からの情報提供のおかげだったんだとか!

 

 

 

 

 

三河中入のような中入り戦法が得意な武将は誰?

結果的に「三河中入」は失敗に終わっていますが、「三河中入」のような中入り戦法は昔から行われていました。

中入り戦法が得意だった武将は織田信長上杉謙信といわれています。

また日本の武将ではありませんが、フランスのナポレオンも中入り戦法のような攻撃が得意だったんだとか!

 

そもそも「三河中入」に代表する中入り戦法は、わかりやすくいうと…

◆成功すれば超ラッキー
◆そもそも相手方に見つからずに背後から攻撃を仕掛けるのは超絶難しい
◆軍隊を2つに分けなければいけなくて兵力が落ちる
◆失敗する確率の方が高い無茶な作戦

 

 

と、超有能な指導者と有能な部下でないと成し得ることのできない超人技の戦法だったんです。

 

この戦法はよほど勘のいい戦闘指導者と、実戦を熟知する将兵に恵まれて、しかも、敵将が凡庸であってはじめて、可能となる難しい戦法でした。

引用:プレジデントオンライン掲載 三河中入をわかりやすく

 

引用:BUSHOO!JAPANより 三河中入をわかりやすく

 

 

 

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中入り戦法成功例は?

「三河中入」は結果的に大失敗に終わった中入り戦法でしたが、過去に成功した例はもちろんあります。

中入り戦法が成功したとされる戦いはこちらです。

 

  • 長篠の戦い
  • 姉川の戦い
  • 賤ヶ岳の戦いの前哨戦
  • 桶狭間の戦い

 

もん
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わかりやすく説明しているものを、ヤフー知恵袋から引用して説明していきますね!

 

中入り戦法成功例①長篠の戦い

「三河中入」は結果的に大失敗に終わった中入り戦法でしたが、過去に成功した例の1つ目は長篠の戦です。

織田信長と徳川家康の連合軍が中入り戦法を仕掛け、見事に成功しています。

 

 

長篠の戦い(ながしののたたかい)
戦国時代の天正3年(1575年)5月21日に三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。引用:Wikipedia掲載 長篠の戦い

 

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長篠の戦いの「中入り戦法」の成功をわかりやすく説明するとこちらになります。

 

「長篠の合戦」

1) 長篠城を武田軍が包囲している所を,武田軍の2倍以上の兵力とされる織田・徳川連合軍が後詰め。

2) 織田・徳川軍は,長篠城から離れた場所で停止して野戦築城を行う。

3) 武田軍は,長篠城に対する押さえの兵を置いて退却路と補給路を確保して,織田・徳川軍を攻撃出来る位置へ前進。

4) 織田信長は,徳川家康の重臣である酒井忠次をして,数千の兵力で,長篠城外の武田軍を襲撃・殲滅させ,長篠城兵と合流して武田軍の退路を断たせた。

5)退路を断たれた武田軍は,前面の優勢な織田・徳川軍に向かって総攻撃をかけるという「信じ難い戦」を行い,大敗を喫した。

武田軍の退路を,有力な分遣隊を派遣することで絶ち,武田軍に決戦を強要した,という点で,「中入り戦法」の一種でしょう。

引用:ヤフー知恵袋より 三河中入や中入りをわかりやすく

 

 

中入り戦法成功例②姉川の戦い

「三河中入」は結果的に大失敗に終わった中入り戦法でしたが、過去に成功した例の2つ目は姉川の戦いです。

 

 

姉川の戦い(あねがわのたたかい)
戦国時代の元亀元年(1570年)6月28日に、近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯)で、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間で行われた合戦である。

 

もん
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姉川の戦いの「中入り戦法」の成功をわかりやすく説明するとこちらになります。

 

「朝倉家を滅ぼし,次いで浅井家を滅ぼした合戦」

1) 織田信長の唯一の同盟者である徳川家康が,武田信玄の軍と三方原の合戦で大敗した後,信玄の病→死去により,武田軍が武田領国へ退いたことを確認した後,織田信長は大軍を率いて浅井長政が籠る小谷城を攻囲。

2)小谷城の周りの浅井方の支城は既に攻略済みで,小谷城への付け城である織田方の横山城が堅固に存在し,浅井軍は小谷城に閉じ込められた状況。

3)越前から,後詰めに朝倉義景率いる軍勢が出て来た所で,織田信長は小谷城への押さえの兵を横山城に残し,残る全軍で朝倉軍を攻撃,撃破してそのまま越前へ侵攻し,朝倉義景を敗死させる。

4)近江へとって返して,孤立無援の小谷城を攻略し,浅井長政を敗死させる。

最小の損害と戦闘期間で,朝倉家・浅井家という大敵を共に滅亡させたのですから,ナポレオン顔負けの「高速機動による各個撃破」です。

引用:ヤフー知恵袋より 三河中入や中入りをわかりやすく

 

 

中入り戦法成功例③賤ヶ岳の戦いの前哨戦

「三河中入」は結果的に大失敗に終わった中入り戦法でしたが、過去に成功した例の3つ目は賤ヶ岳の戦いの前哨戦です。

 

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)
天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市、旧:伊香郡木之本町)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。
引用:Wikipedia掲載 賤ヶ岳の戦い

 

もん
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賤ヶ岳の戦いの前哨戦で「中入り戦法」の成功をわかりやすく説明するとこちらになります。

 

大河ドラマ「江」を見てたら、賤ヶ岳の戦いの前哨戦、佐久間隊の攻撃に使われていましたね。
あれなんかも、街道を中心にしたエリアでは、柴田勝家の本隊と羽柴秀長(秀吉留守部隊)らの主力があくまで対峙している中で、一部別働隊が「中入り」として迂回攻撃した訳です。

この時はある意味「中入り」自体は成功した訳ですが、羽柴軍は動かず(崩れもしない、この辺、秀長らしい)、むしろ戻ってきた秀吉の主力にこの佐久間隊がやられ、動揺した柴田軍が崩壊しちゃったんですね。つまり、中入りは裏目が出たってことです。

引用:ヤフー知恵袋より 三河中入や中入りをわかりやすく

中入り戦法成功例④桶狭間の戦い

「三河中入」は結果的に大失敗に終わった中入り戦法でしたが、過去に成功した例の4つ目は桶狭間の戦いです。

織田信長が今川義元軍勢に対して中入り戦法を仕掛け、見事に成功しています。

 

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)
永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し、今川義元を討ち取った。

引用:Wikipedia掲載 桶狭間の戦い

 

 

もん
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桶狭間の戦いで「中入り戦法」の成功をわかりやすく説明するとこちらになります。

 

「中入り」賭博的奇襲戦法で義経や織田信長が桶狭間で今川義元の本陣に迂回して突撃した戦いなどがそれである。この戦法は大胆なだけに、非常に危険な賭けで運も味方にした、いわば一か八かの捨て身の戦法であった。

信長の奇襲の時もにわかな豪雨で奇襲側の意図〔行動)を隠した。従って、この作戦の危うさは、敵に感ずかれた場合は、少数故に完全に殲滅される可能性が高かった。

引用:ヤフー知恵袋より 三河中入や中入りをわかりやすく

 

 

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まとめ

今回は「三河中入をわかりやすくいうと?中入り戦法が得意な武将や成功例は?」と題してお送りしました。

歴史の教科書にも載っている有名な合戦の「小牧・長久手の戦い」で用いられた「三河中入(みかわなかいり)」をわかりやすく説明するとこちらです。

 

◆「中入り」とは膠着状態の戦いで、密かに敵の背後に回って後方から奇襲攻撃をかけること
◆「三河中入」は羽柴秀次が徳川家康陣営に仕掛けた奇襲攻撃
◆徳川家康陣営は「三河中入」情報を即座にキャッチし、即座に先遣隊(水野忠重・榊原康政ら)を編成して小幡城へ派兵
◆先遣隊の行軍後、徳川家康も本隊を編成して小幡城へ向かう
◆「三河中入」軍先頭の池田恒興は岩崎城で丹羽氏重と戦い勝利
◆池田恒興が岩崎上で戦っている時にメイン部隊の羽柴秀次軍は白山林(小幡城の近く)に休息していた
◆そこを徳川家康の先遣隊が後方と側面から奇襲攻撃をかける(白山林の戦い)
◆羽柴軍勢は壊滅し、後の「長久手の戦い」へと繋がっていく
◆長久手の戦いでは徳川家康軍が大勝利
◆約8カ月にわたって続いた「小牧・長久手の戦い」の後、結果的に豊臣秀吉が天下を統一
◆しかし、この戦いで功績をおさめた徳川家康は実力を全国の大名に認識させ、豊臣政権下においても強い影響力を持つことに
◆結果的にわかりやすくいえば「三河中入」は大失敗に終わっている

 

「三河中入」に代表する中入り戦法は昔から行われていて、中入り戦法が得意だった武将は織田信長や上杉謙信といわれています。

また日本の武将ではありませんが、フランスのナポレオンも中入り戦法のような攻撃が得意だったそうですよ。

 

歴史を見てみると、過去に中入り戦法が成功している戦いは「長篠の戦い」と「姉川の戦い」や「賤ヶ岳の戦いの前哨戦」といわれています。

どちらも中入り戦法を得意としていた織田信長が関わっている戦なことがわかりますね!

 

 

 

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