サッカー日本代表の監督である森保一(もりやすはじめ)監督。
日本代表の監督という素晴らしい経歴を持っていますが、学生時代はどんな学校に通っていたのでしょうか?
もちろんサッカーの強豪校に進学していただろうと思って調べてみると、超普通の学校にいってる学歴しかありません。
中にはサッカー部自体がなかった学校も?
一体森保一監督はどんな学歴をもっていて、どんな学生時代を過ごしてきたがかが気になりますよね!
そこで今回は、
- 森保一の学歴:高校
- 森保一の学歴:中学校
- 森保一の学歴:小学校
- 森保一の苦労してサッカーを続けた過去とは?
についてお送りします。
森保一の学歴:高校
森保一監督の学歴で、高校は長崎日本大学高等学校に進学したことがわかりました。
長崎日本大学高等学校は、日本大学の第5代総長である永田菊四郎さんが地元の長崎県に日本大学の付属高校として1967年に開校した私立の学校です。
現在は中高一貫教育が行われている男女共学校ですが、森保一監督が在学中は高校のみでした。
長崎日本大学高等学校の偏差値は、森保一監督が在校していた間は40台だったようですが、現在は61となっています。

めっちゃ頭がいい高校ですね!
森保一監督は中学校時代のサッカー部創設や大会成績などが認められ、特待生としてのオファーで長崎日本大学高等学校に進学しました。
長崎日本大学高校は運動系の部活が強いことでも有名で、特に硬式野球部は県内強豪校としても有名です。
有名な卒業生にはプロスポーツ界で活躍した方が多い印象ですね!
- 貝塚政秀(元プロ野球選手)
- 宮崎祐樹(プロ野球選手)
- 森保洋(元サッカー選手)
- 大久保誠(元サッカー選手)
- 大瀬良大地(プロ野球選手)
- 中村隼人(元野球選手)
- 野原将志(元プロ野球選手)
- 松尾雄史(演歌歌手)
- 吉崎観音(漫画家)
- 谷川史子(漫画家)

「ケロロ軍曹」の作者の吉崎観音さんも長崎日本大学高校だったんですね!
森保一監督は長崎県内のサッカー強豪校の国見高校への進学を希望していましたが、父親の反対により長崎日本大学高校への進学します。
森保一監督はサッカー部に所属しますが、当時長崎県は国見高校と長崎県立島原商業高等学校の2強時代。
長崎日本大学高校サッカー部はこの2校に勝てることがまずなかったので、森保一監督は高校時代に大きな大会に出場できる機会はほとんどありませんでした。
厳しい練習に耐えているのに大きな大会に出られない。
そんなもどかしさから、森保一監督は高校2年生の時にサッカー部から逃げ出してしまいます。
学校にも行かずに友達と遊ぶ毎日をすごした森保一監督でしたが、サッカー部の下田監督は毎日自宅まで様子を見に行き、決して見放すことはありませんでした。
反省した森保一監督は1週間ほどして頭を丸めてサッカー部へ戻り、下田監督に謝罪をしました。
下田監督は烈火のごとく怒ったそうですが、森保一監督に許しを与えて今後は頑張るようにと指導します。
その後は一生懸命練習に励んだ森保一監督は、その努力の甲斐があって、1986年に開催された山梨国体で森保一監督は県のセンバツメンバーに選ばれ、MFとして活躍しました。

この下田監督の「アメとムチ指導法」が現在の森保一監督の指導の原点になっているんだとか!
森保一の学歴:中学校
森保一監督の学歴で、中学校は長崎市立深堀中学校に通っていたことがわかりました。
森保一監督は父親が造船業のお仕事をされていたので、長崎の港町にある長崎市立深堀中学校に通っていました。
森保一監督は小学生の頃からサッカーに取り組んでいたのですが、なんと進学先の長崎市立深堀中学校にはサッカー部がありませんでした。
そのため、隣の校区の長崎県立土井首中学校のサッカー部に混ざって練習に参加していたそうです。
長崎市立深堀中学校の卒業生には森保一監督の他に、元プロバスケットボールプレイヤーで2004年のアテネオリンピックに出場経験もある濱口典子さん(現・小磯典子)さんがいます。
森保一の学歴:小学校
森保一監督の学歴で、小学校は佐賀県の唐津市立鏡山小学校と長崎県の長崎市立深堀小学校に進学したことがわかりました。
元々は静岡県掛川市で生まれた森保一監督ですが、父親の仕事の関係で幼少期は全国各地を転々とした生活を送ります。
小学校入学時には佐賀県唐津市に住んでいたので唐津市立鏡山小学校に入学。
しかしすぐに転校することが決まり、その後は長崎市立深堀小学校に進学しました。
静岡県掛川市で生まれたが、父親が造船関係者だったため、幼少期から名古屋市、横須賀市、佐賀県唐津市と各地を転居し、唐津市立鏡山小学校に入学するもすぐに転居。小学1年生から長崎市に定住する
森保一監督は小学校5年生の時に隣町にある土井首サッカークラブに誘われたことがきっかけで、小学校6年生から本格的にサッカーを始めます。

意外と遅いサッカーデビューだったんですね!
当時地元の深堀町は野球やソフトボールが盛んな地域だったので、両親はサッカーに対して
「ボールを足で蹴る?どこがおもしろいの?」
とあまり乗り気ではなく、一度はサッカーを辞めさせたこともあったんだとか。
しかし当時小学生だった森保一監督はサッカーの魅力にハマり、両親には内緒で往復1時間の道のりを毎日練習に通い続けました。
森保一監督が小学校6年生の時になんと土井首サッカークラブは全国大会出へと進出!
しかし、まだ経験の浅い森保一監督は補欠のGKとして地区大会から参加します。
しかし、たまたま登用された試合では好セーブを連発!
全国大会でもGKとして登用された姿を見た両親は、
「やっぱり、子がやりたがっていることをやらせてあげたい」
と考え直し、森保一監督のサッカーの応援をしてくれるようになったそうです。

父親の洋記さんはサッカー週刊誌3誌を毎週予約購入してサッカーの知識を付けたんだとか!
森保一の苦労してサッカーを続けた過去とは?
森保一監督は学歴を見てもわかるようにサッカーの強豪校に進学したわけではないので、学生時代から目立っていた選手ではありませんでした。
引用:RCCニュースより
突出したスター性があるわけではないものの、森保一監督は過酷な道においてもひたすら地道に努力して練習を続ける選手でした。
ひたむきな姿が周囲の人たちからの支援に繋がって現在に至った森保一監督の、学生時代の2つの苦労エピソードをご紹介しますね。
- 父の「サッカー部がないなら作ればいい!」
- 特例の6人目でマツダに採用
父の「サッカー部がないなら作ればいい!」
森保一監督の学歴をみてみると、中学は市立の普通の地元中学校へ進学しています。
地元校区の中学校に進学した森保一監督ですが、なんと学校にはサッカー部がありませんでした。
森保一監督は、中学校1年生のうちは隣校区の土井首中学校サッカー部の練習に通う毎日を過ごしていました。
中学校が違うので公式戦には出られないものの、実力は確かだったので練習試合では突出して目立っていた選手だったそうです。
でも、土井首中学校の選手からしたら他校の生徒が活躍して選手枠を取っていくことは面白くないですよね。
なんと森保一監督は突出した実力を妬まれ、嫌がらせを受けるようになりました。
ただ、それが土井首中の部員のねたみにつながった。スパイクを隠されるなど嫌がらせを受けた。森保は洋記に「来年からは練習には行かない」とだけ漏らした。
森保一監督の悲痛な声を聞いた父親は深堀中学にサッカー部をつくることを決意!
校長室まで出向いて校長先生と教頭先生を前にし、サッカー部創設の直談判を何度も訴えかけました。
ついに学校側も折れ、グラウンドは使用しないことを条件にサッカー部創設の認可を勝ち取りました。
グラウンドは当時強豪とされていたハンドボール部が独占していたので、森保一監督は父親の造船所の駐車場の一角を練習場として練習に励みました。
「グラウンドを使わない」という条件つきで創部を許可された。当時はハンドボール部が強豪で練習場を独占。それでも「部さえ作れればしめたものだった」と洋記。地元の造船場の裏手にある駐車場の使用許可をとり、顧問を頼んだ英語教師と一緒に雑草を刈り、砂利を拾って整備した。
監督は森保一監督の父親が引き受け、戦術は息子の森保一監督が考案。
その後もひたむきに学校と交渉を続け、ついに森保一監督が中学校3年のときにグラウンドの使用許可がおりました。
森保一監督率いる深堀中学は地元大会で次々と優勝を飾り、森保一監督自身も長崎日本大学高校から特待生で誘いがくるまでに成長することができました。
特例の6人目でマツダに採用
森保一監督の学歴をみると、高校はサッカーの強豪校ではない長崎日本大学高校に進学しています。
高校在学中はめざましい活躍は残せなかったものの、森保一監督はこの先もサッカーを続けていきたいと考えて、サッカーの実業団がある就職先をさがしていました。
そんな折、長崎日本大学高校サッカー部監督だった下田規貴(きよし)さんとマツダ(現サンフレッチェ広島)のチーム編成責任者だった今西和男さんは親交があったことで、長崎日本大学高校に今西和男さんと監督のハンス・オフト監督が選手のスカウトに訪れます。
そこで目を惹いた選手が森保一監督でした。
「いつも背筋を伸ばして、顔を上げてプレーしているじゃないか」。
当時、日本に芝のグラウンドはほとんどなかった。バウンドの不規則な土の上では、ボール扱いに苦労して下ばかり見てサッカーをする選手が、どうしても多くなる。そんな中にあって、姿勢の良さが生み出す森保の「視野の広さ」は光っていた。
森保一監督は今西和男さんの「うちに来るか」の言葉で、マツダへの誘いを受けました。
しかし高校卒業を控えた秋に事件が起こりました。
なんと内定が出ていたマツダの高卒採用枠が減り、入社が見送られることに…
入社見送りで路頭に迷う寸前の森保一監督でしたが、窮地を救ってくれたのがスカウトをしてくれた今西和男さんでした。
当時マツダでは高卒者のサッカー選手枠採用は5人までだったのですが、特例で子会社のマツダ運輸への勤務という形で6人目のメンバーとしてマツダへの加入がきまりました。
当時マツダ本社は高卒採用枠5人までであったため森保は本社に入社することが出来ず、子会社のマツダ運輸(現マツダロジスティクス)に勤務した。
もしこのときにマツダ(現サンフレッチェ広島)に就職できなかったら、きっと現在の森保一監督はいなかったでしょう。
サッカーの強豪校でなくても、ひたむきにサッカーに取り組み続けた森保一監督の努力を周りが見ていたからこそつながった未来だったのですね!
森保一監督の学歴をみてみると、サッカー関係者としては一見パッとする学歴ではないかもしれません。
しかしその裏には、多くの人の支えと森保一監督自身の努力が積み重なっていた一面を垣間見ることができました。
まとめ
今回は「森保一の学歴(高校中学校小学校)は?苦労してサッカーを続けた過去も!」と題してお送りしました。
森保一監督の学歴はこちらです。
- 小学校:唐津市立鏡山小学校・長崎市立深堀小学校
- 中学校:長崎市立深堀中学校
- 高校:長崎日本大学高等学校
一見サッカー選手としてはパッとするような輝かしい学歴ではありません。
サッカーの名門校に通っていたわけではない森保一監督ですが、その裏には多くの苦労と努力と周囲の支えがありました。
現在の森保一監督ができあがった背景には、学歴だけ見てもわからない感動が詰まっていました。




